こうみえて石橋は叩き割るタイプ

 

 

占いとか信じるタイプじゃないと思ってた。

先日はじめてお会いした女性がうらなってもらいたいというので付き合うことにし、占い処へむかう途中、言われた言葉だった。

 

良いことはもちろん無条件に信じるし、悪いことは他人事のようにへえ、と聞き流す。占いはどちらかと言えばすきだ。でもその理由は拠りどころがほしいというより、第三者に分析されるおもしろさを気に入っていることにある。

 

わたしは現在無職で、必然的に家にいる時間がながい。床にころがって求人をながめたり、録画していたテレビを観たり、時々こうして文章を書いたりしている。日によってはベランダのシャッターをあけないまま一日をおえてしまうこともあり、世間というものに疎くなる一方。我ながら怠惰だな、とおもう。いまはきっと、人生の夏休みというやつだ。冬だけど。

 

そんなわけで占ってもらったのは仕事について。

職にこまっているわけではない。新卒入社の会社を早々に辞めたわけだけどいくつか内定はいただいているし、面接で落とされたことは未だない。問題はそこではなくて、わたし自身。ながく続ける自信がまったくと言っていいほどないのだった。

 

その占い処では受付の人が占い師選びをアドバイスしてくれた。一言も発していないわたしの目をみて、あなたは感受性がつよいからこの先生がいいよという。言われるがままお願いをしてブースに案内される。

個人情報をいくつか記入して分析、基、占いがはじまった。

 

占いでは余計なことは話さないときめている。会話の節々からヒントを盗まれないように言われたことに相槌を打つだけ。めんどう極まりない客だと思う。プロフィールをみて、書く仕事にむいている、といわれ、澄まし顔でへえ、と言いつつも内心うれしかった。とてもおどろいたのが、なにも話していないにも関わらずうらないの結果が的を射すぎていたこと。

 

常々、一度きりの人生、自由に生きたいと考えている。けどその実、なかなか固定概念という名の呪いから逃れられない。親の雇用形態が不安定だったこともあり、わたしはいつも現実的な選択をしてきたし、たまにぼんやりと先の見えない理想を語ると、とんでもない大喧嘩になった。前職を辞めると話したときもそうだった。

 

仕事のために人生があるのではない。人生における第一優先はたのしむこと。

わたしにとって仕事はあくまで生きるための必要枠で、それ以上でもそれ以下でもない。つまらない、この仕事をしている自分をすきになれない、仕事のことを人に話すとき自虐なしでは語れないし、愚痴以外出てこない。そんな状況が嫌で飛び出したのに、わたしはまた、自由と紙一重の不安定さに怯えて、無意識に安定した道に引き返そうとしていた。その証拠にわたしの企業選びの基準は仕事内容ではなく、待遇面ばかり。

 

かんがえすぎて生きるのさえ億劫になる。それほどかんがえた。そしてかんがえすぎて身動きがとれなくなる。最悪のループ。

 

ゼロか百でかんがえがちで、自分のこととなるとすこぶる視野がせまくなる。どういう道をえらんでも人はなんだかんだ生きていけるものだし、いつでも軌道修正すればいい、それだけの話なのだけどなあ。わかっているけど動けない。原因は思考を自分のなかで完結してしまっていたからかもしれない。人に話して実現できなかったらいやだ、とか、へんな意地とプライドが邪魔をしていた。なのに、気づけば占い師さんに掻い摘んで吐き出していたのは、たぶんまったく知らない人だったからだろう。

 

その占い師さんが言うことは最初から最後まで不思議なほどに的を射ていた。最初はともかく、途中からうっかり色々話してしまったのでどこまでがほんとうに占いによるものなのかはわからないけど、目のまえの靄が晴れた気がした。一問どころか、二、三問解けたような。

 

 

どうせ真偽のわからない事象なら、自分に都合のいいように解釈すれば良いよ。

無条件に生きやすい世界ではけしてないからせめて自分だけは、自分の味方で。

 

 

 

 

鈍感なくらいが生きやすいというけれど

常に省エネモードで体力がなくアルバイトを含めシフト制の仕事しかしたことがないから連勤によわい。程良い休暇の間隔に生かされながら、生活リズムを確立しやすい固定勤務に憧れる。

シフトを確認して時間通りに出勤、仕事、休憩、仕事。上りが近づいてきた頃ふとパソコンを開くとエラーの表示。見るとその日わたしはシステム上休日になっていた。慌てて上司に相談するも、上司も上司でなにが起こっているのかわからないという。当日の業務スケジュールのなかには当然のようにわたしも組み込まれていたので間違って出勤した可能性はゼロ。「自分で休みいじった?」「もしいじってたらわざわざ出勤してきませんよ」。結局原因もわからぬまま休日出勤ということになり、帳尻合わせのために休日が一日なくなった。

 

休日出勤、つまり残業になるからはやく帰ってくれと中途半端なまま退勤。残業代が出るとはいえなんだかなあと思いながらデパートに寄って、霧雨を浴びながら家路を辿った。最近はばたばたしていて家のことがおろそかになっていたのでちょうどいいか、と台所を片づけ、浴槽を磨いて洗濯機のスイッチを入れる。めんどうだから一枚でも多く洗ってしまおうと着ていたものもすべて放りこんで、さむいさむいと湯がたまるのを待つ馬鹿なわたしを愛して。

 

少しまえ、ひとりふらっと近所の居酒屋に入った。開店したばかりで店内はがらがらなのに通されたのはなぜか家族連れの隣の席。なにかを試されているのだろうか。わたしの心はそんなことでは折れないぞ、という気持ちでお酒を二杯飲み、締めには梅茶漬けを頼んだ。実は特別お酒が飲みたかったわけでもメイン料理が食べたかったわけでもなく、お茶漬けだけが目当てだったのでした。店内のBGMは一等に好きなアーティストの曲で、しかも出掛ける直前に聴いていたものとおなじだから運命を感じた。安っぽくて単純な動機、だけど人はそういう些細なことに生かされていたりするの。かもね。

 

すっかり夜に染まった帰り道、鼻歌を歌いながらあるく。好きではない、むしろ苦手だった曲をつい口遊んでしまうのは何かの番組で好きな俳優が歌っていたからで間違いない。

桃井かおりがしみじみとした表情と軽やかな口調で「どんどん自由になっていく」と言う、ブランド化粧品のCMが好きだ。

 

誰も知らない・誰のことも知らない町に越してきて、人影を気にせず歌いながら歩くようになった。退屈で心が死にそうなこの町ともあと一ヵ月ほどでおさらばだ。解放される、その事実だけで枯れた心が潤ってくる。しがらみも制約も他人の顔色も暗黙のルールもつまらない固定概念も、ぴょーんと軽く飛び越えて生きる。蹴散らすほどのものでもないの。ただかるうく、ぴょーんと。

身軽でいたいよいつだって、大切なものだけ抱えてさ。

飄々と休日

 

慣れない靴に疲弊しきった足を酷使して、大阪を徘徊後、ようやく帰宅。今回の五連休はのんびりするつもりでほとんど予定を入れていなかったはずなのに、結局最終日の昼頃まで家を空けていた。

 

知人が鹿に会いたいというので奈良公園に行き鹿煎餅を購入するも鹿はまったく見向きもしない。差し出しても差し出しても華麗にスルー。人の心が折れる音を聞いた気がする。ちいさな男の子が鹿を見て顔を輝かせていたので知人が煎餅を一枚わけてあげたが鹿はそれをも素通り、母親が代わりにあげようとすると突進する始末。その後知人は熟考の末、煎餅に飽きている、違うものなら食べるのではと気づきどんぐりを拾い集め、念願の触れ合いを達成していた。わたしはといえば、一歩後ろで一喜一憂する様を眺めつつ時折カメラを起動。

 

その知人は良く言えば真っ直ぐで裏表のない人、悪く言えば融通の利かない人。彼はぽつぽつと、バイト先でベテランのおばさま方とうまくいっていないという話をした。わたしは柄にもなく出社拒否を起こして適当な理由で二日もさぼってしまったという話をした。わたしは彼にあなたが言ったことはけして間違いではないし、それは揺るぎない事実だけれど、相手に率直に伝えてもどうにかなる問題ではないということを言い、彼はわたしにそれは必要な休暇且つ正当な理由なのでさぼりとは言わないと言った。わたしたちは友人でも、ましてやそれ以上の関係でもないからお互いに事実しか言い合わない。問われれば答える程度で踏み込むことをしないのは感情を深く共有するほどの興味がなく、心が触れない距離に居心地の良さを感じているからだ。

 

母と昼食を食べ、これからのことを話した。彼女には決定事項で相談という段階にはないことを反対されていた。そのことについて変更するつもりはないと強い意志で伝えると母は静かに、もう好きにしていいと言った。「あなたは小さい頃、私みたいな生き方が良いと言っていて、それは困ると思っていた。けど、そうじゃないならいい」と。わたしはそのときの自分の発言を覚えている。どこで何をしているときにそう言ったのかも覚えている。でももうそのときの気持ちはない。

わたしはわたしの人生を楽しみたい。一度きりの人生、やりたいことが理想として頭のなかにあるというのに、いつまでも足踏みだけで終えるつもりはなかった。

価値観とは風潮環境個性感性など、その人が培ってきた人生の象徴だと思っていて、だからこそ人の考えを否定したくないという思いが強くある。だからこそ、否定されたくないという思いも強い。母とは根本的な部分で考え方が違い、両者とも自分の思想に自信を持つが故に深く話し合うほどに対立し、過去幾度となく否定されその度に大喧嘩になった。以前人生の選択は乗り越えられなかったものを基準に繰り返されるという内容のものをなにかで読んだ。わたしはそれが今であると確信していたし、もし納得されなくても実行するつもりでいたけれど、やっぱり、嫌味のない言葉で認めてもらえると心が晴れやかになる。

つまり母はわたしが思っていたよりもただの女で、保護者としての責任感があり、わたしを娘として大事にしてくれていて、能天気な女を装った策士であった。

 

いまの生活はくるしくて仕方がないことが多いけれど、もうすぐ自由になれる、それだけでうきうきとした気分になる。この生活をはじめてから明日という概念は今日の上に成り立っているから一日たりとも無駄ではないということを実感した。自分にやさしくするというのは丁寧な暮らしをすること。丁寧は暮らしとはゆとり、ゆとりとは愛があってこそのもの。誇れる自分になる。未来のわたしに、過去のわたしに、今のわたしに。わたしはわたしらしく飄々と生きるよ。

 

 

職場の店長からCDをもらった。

とても好きなバンドの曲だから聴いてみて、と。その人の、好きなものに触れる瞬間は、心をわけてもらったみたいでうれしい。

 

先日、北にある輸入雑貨のお店に行った。

足を運んだのは二回目。はじめて行ったときから随分時間があいていたにも関わらず、わたしのことを覚えていてくれてたのはとても驚いたし、なんだか現実味がなかった。

店主のすずなさんのことは一年程前にツイッターを知って、以来、一方的に憧れを募らせていたので、こうして顔を見て、直接話ができるというのは俄かに信じ難く、やっぱり現実味がない。

 

彼女の口から飛びだす言葉の数々は確かに同じ言語のはずなのに、まったく違う輝きを感じた。深い知識を丁寧な言葉で紡いでいく、奥ゆかしい女性。

せっかくなので我儘をいっておすすめの本を教えてもらった。

実はひそかに、いつか本を選んでもらいたいなと思っていたから、夢がひとつ叶った。

 

お店においてある商品はほんとうにどれも素敵で、ショッピングモールにある雑貨屋さんでは見たことないものばかり。すこしのお小遣いを手に駄菓子屋でお菓子を選んでいた、小さな頃を思い出す。

画面越しにみる彼女は雨上がりの静けさを纏ったようなイメージだったけど、実際はやさしい微笑みの似合う朗らかな人だった。ほんとうに、めちゃくちゃに素敵なひと。こんな女性になりたいとおもう。緊張してうまく話せなかったのが悔やまれるほど、とっても贅沢な時間だったな。

 

最近、指輪をつけたまま仕事をするようになった。

職場は結婚指輪以外アクセサリーを禁止しているのだけど、結婚指輪とはすなわち愛の誓いであるから、愛を込めて贈られたこの指輪も同等の価値であるというこじつけで勝手につけて行っている。

偶然休憩室で会った同期には、婚約でもしたの、と喰いつかれてわらった。

 

基本的に同調することが無難であると思っていたわたしだけど、なんかもう色々飽きてしまった。

なににと言われればすべてにとしか答えようがない。そうあるべきものに片っ端から怒りを感じていた中学の頃と、感覚的に似ているかもしれない。

同調するということは自分の意見を、感情を殺すということ。わたしはそういうの、もういいやとおもった。過去を思い返しては後悔する瞬間が増え、あまりの自己嫌悪になにかがぷつんと切れたのだ。

 

過去の選択に納得がいかないなら、今後わたしが自分のためにできるのは、せめてその失敗を微笑ましく感じられるほどの心のゆとりを持つこと、つまり、いまを愛せるように軌道修正すること。

 

叶えたい夢がある。それを夢のまま終わらせないために、通過点を明確にする。

一度きりの人生、目一杯、たのしむよ。